金目鯛の漁師を経験して分かった自分にあう仕事(前編)
ディップ株式会社は、「バイトル」や「はたらこねっと」をはじめとした求人メディアサイトを運営している会社で、メディアを通じて求職者と仕事の出会いをサポートしています。
今回はディップ株式会社で、求人メディアサイト「バイトル」や「はたらこねっと」の編集長を担当されている笠松利旭さんに、ディップ株式会社で働くことになった経緯についてお話を伺いました。
目次
留学先のあてもなく向かった
ブラジルサッカー留学
― まずは、現在のお仕事に就いた経緯を教えてください。
中学校からサッカーをはじめて、高校入学後にふとプロを目指そうと思い立ち、高校を中退して16歳の時にブラジルへサッカー留学に行きました。両親や友人には、「高校辞めてブラジルに行く。」と言ったら、反対されましたが、決意は揺らぎませんでした。
高校を中退したあとの数か月間は、ビザを取るために往復航空券を買わなければならなかったので、アルバイトをしながら留学資金を貯めていました。実は、ブラジルに行くことは決めていたものの、留学先は決まっていませんでした。ブラジルにさえ行ければ、何とかなると思っていました。
― ポルトガル語は話せたのですか?
いえ、まったく話せませんでしたね。辞書も用意していませんでした。日本街に着いたら1,000円くらいで泊まれるペンションがあったので、そこでまずは情報収集しようかなと思っていたところに、偶然日本語の話せる日系のビジネスマンに出会いました。そこで「プロサッカー選手になるために日本から来た」と話したところ、知り合いの息子さんがプロを目指しているから本気ならその家にホームスティしてみたらどうかと紹介してくれました。
― 凄いですね!今は留学も身近になってきたイメージがありますが、当時10代で言葉も通じないなか、夢を追って海外に行くなんてかなりの勇気が必要だったのではないですか?
元々、思いついた時に思いきった行動をしちゃうタイプだったんですよね。別にサッカーが特別上手だった訳でもないですし。ただ、プロになれなくて日本に逃げ帰ることはしたくなくて、泊まっていたペンションで帰りのチケットを破り捨てました。だから、日本に帰るためにもプロにならなきゃいけなかったんです。 でもそれには物語があって、ホームステイ先を紹介してくれたビジネスマンが、私に内緒でごみ箱から帰りのチケットを拾って、再発行できるようにつなぎ合わせてくれていたんです。私の気持ちを大切にして、それをプロテストが受かった後に渡してくれたんですよ。 結局プロテストには、観光ビザの期限が切れる最後の1か月で受かりました。テストに合格したので、観光ビザから就労ビザに書き換えてくれる証明書をもらって、一度日本に戻ってきました。
自分を見つめなおす時間がほしくて、
金目鯛漁師へ
― 日本に帰国して、またブラジルに戻ったのですか?
ブラジルに戻るつもりで帰国しましたが帰国後、事故で膝の靭帯をのばしてしまいました。約1年ほどケガが長引いてしまい、自分について色々考えるようになりました。やっぱりプロはレベルが違うし、自分は怪我も抱えているし、このままプロの世界でサッカーを続けるには厳しいなと。それから「社会出て何をするか?」というのを考え始めたのが、社会人生活への第一歩でした。
― 社会人生活をスタートさせたということですが、最初から今のような企画職のお仕事をされていたのでしょうか?
いいえ、全く違う仕事でしたね。それまでは、サッカーでプロになることしか考えていなかったので、帰国後は何をしたらいいのかわかりませんでした。だから、自分が何をしたいか考える時間をつくろうと思って、金目鯛の漁師をはじめました。
― 考える時間をつくろうと考えて、金目鯛の漁師が候補にあがったのは、元々魚好きとか釣りが趣味だったからですか?
別に釣りが好きだったわけでもなく、魚が好きだった訳でもありませんでした。それに金目鯛の漁師に縁やゆかりもありません。とにかく考える時間が欲しかったんです。16歳でブラジルへ旅立ち帰国してからは、社会人リーグをやりながらプロを諦める20歳まで、ずっとサッカーのことだけを考えて生活していました。だから自分の人生について、何もない厳しい環境で考えてみたいと強く思うようになりました。期間としては、2年くらいそんな時間があってもいいかなと。それで厳しいといったら、「やっぱり漁師かな?」と漁師の仕事を探したんです。
― 思い切った転身でしたね。個人的には漁師のお仕事って、親子代々漁師をされている方が多いイメージだったのですが、お仕事はどのように探されたのですか?
確かに私のように、漁業と全く関係ないところから漁師を希望する人は少なかったですね。
仕事探しについては、当時漁師を希望する人が登録するところがありました。そこに登録すると船主から、「うちで働かないか?」と電話がかかってきます。私も登録後に「ちょっと面接に来ないか?」と、伊豆の下田にいる漁師の方から声をかけてもらって、そこで採用になりました。
「いきなり大手に応募して、何かを変えるってバカじゃないか?」と言われた転職活動
― 社会人としてのスタートが漁師だったということですが、実際働いてみて働くことへの印象は変わりましたか?
約2年間働いていましたが、想像以上に辛かったです。拘束時間は、夜中12時くらいから夕方5時くらいまでになります。漁師は、実際に海に出て漁業している時間以外にも仕込み作業があるので、どうしても拘束時間が長くなります。それから漁に出たときは、10日間ずっと沖で仕込み作業や漁業をおこなっていました。だいたい漁に10日行って、戻ってきたら翌朝の早朝に水揚げして、半日お休みがあります。そして次の日の午前中に翌日の出航の仕込みをして、また半日休んで出航というスケジュールなので本当にハードでした。
― いきなり漁に出て、船酔いとかは平気でしたか?
最初はとても酷くて、ご飯も食べられない状態でずっと吐きつづけていました。何も食べられないので5日目くらいからは血を吐くんですよね。これはヤバいって思うんですが、先輩の漁師達からは「最初は血を吐くもんだよって」(笑)でも、2航海くらいしたあたりから慣れてきて、吐かなくなりました。船酔いに慣れるまでが一番辛かったですね。
― 社会人1年目からハードな仕事で、それを2年間も続けるのはすごいですね。続けてきた漁師の仕事を辞めて、次の仕事に転職しようと思ったきっかけは何だったのでしょうか?
漁師の仕事に慣れてくると、毎日17時間くらい同じ作業を繰り返すルーティン作業だということに気づきました。自分にとっては、それがたまらなく嫌でした。その時に、決められた作業を淡々とする仕事には向いていないなと気づきました。あとはルーチン作業をしていても、日常生活をしていても、「これって、こうすればもっと良くなるんじゃないか」とか「こうすればもっと売れるんじゃないか」とか色々アイディアが閃くんですよね。で、俺って天才なんじゃないかって自分で思うようになって(笑)。それから自分は考える仕事をしたいという気持ちが強くなっていました。どういう職種とか業界とかにはこだわりはなく、とにかく考える仕事がしたいと思っていました。ちょうどその頃に、新しいアイデアでどんどんサービスを作って、業界を変えていくというイメージがあった人材・販促メディアを手がける大手企業を見つけました。そこで「自分も世の中にインパクトを与えたい!」と思って、その企業の企画職に応募しました。内心この企業は「俺にぴったりじゃん」って、思っていました。
けれど「何かを変える!」と意気込んで応募した企業は、書類選考で落ちてしまいました。中卒でブラジルに行って、社会人経験は漁師の2年間という肩書きのみでは、書類すら通過しなかったのです。そんな時、「お前みたいなのは営業で実績でも残さないと、もう普通の会社には入れないよ」と友人がアドバイスをくれました。
営業初心者から、
トーク力と商品知識を磨いた2年間
― では企画職ではなく、営業に方向転換して転職活動をしたのですか?
はい、仕方なく・・・。転職後は、個人宅への訪問販売のような営業の仕事をしていました。入るときから2年間で営業成績日本一になって、「今度こそ、書類落ちした会社に入社してやる!」と一生懸命働きました。
― 転職した営業のお仕事は、具体的にどのようなお仕事だったのでしょうか?
アルカリイオン水と機械の訪問販売です。営業しながら現地を回っていると、アポイントをとったと会社から連絡がくるので、そのお宅へ伺って販売していました。ただ、このアポイントのほとんどは強引にとったものが多くて、実際に水と大きい機械を持って伺うと「えぇ~断ったのに。」と驚かれるところからスタートなんです。そこからが営業の腕の見せ所なのですが、まずは信頼してもらって、玄関を開けてもらうまでが勝負でしたね。そこから約40万円する製品を即決で購入いただくんですが、売る為にまずやったのは徹底的な製品の勉強でした。
ちょうど取り扱っていた機械は、医療用機器として厚労省から認可を受けていたし、体の症状に効くというのがマウスの治験や様々な事例が学会や大学病院で実証された製品だったので、その資料を隅から隅まで徹底的に読み込みました。
後は相手の健康に対する思いや悩み、ニーズ、水に対するこだわりをお伺いし、それと製品がもたらすメリットを結びつけてあげるだけでした。初めて会う自分に対して不信感を抱いているお客様と、どのように関係性を築いて高額商品を即決していただくまで購買意欲を高めるのか、この駆け引きが一番面白かったです。
― 駆け引きを楽しめる余裕をもてたのは、やはりトーク力や商品に自信があったことが大きいですか?
誰よりもトークの練習はしていたので、トーク力についてはめちゃくちゃ自信がありましたね。先輩や同僚の営業トークを朝昼晩聞いて、「あの接続詞だと怪しいと思われるな。」「こういう言い回しだと良いかな。」とか、独自に話し方の研究をしていました。絶対に日本一になる必要があったので本当に努力しました。
― 営業トークを独自に研究していたということですが、社内研修みたいなものはなかったのですか?
ありませんでした。実は入社した頃の私は、社会人経験もほとんどないのに「俺がナンバーワンになる!」みたいな感じで、かなり生意気だったんです。そういうこともあって入社して3か月間は、先輩の運転手をずっとしていました。それでも一緒に商談を見させてもらえるのならまだ良かったのですが、生意気だったのが災いして、商談も見せてもらえませんでした。だからずっと車の中で、録音したトークを聞いて練習していました。同期はすぐに営業に行かせてもらっていたので、最初の3か月間は、正直しんどかったです。
書類落ちした大手企業へのリベンジ魂が糧に
― 同期と比較して、焦ってしまうこともあったと思いますが、3ヶ月間心が折れずに頑張れたのは、目標を持っていたからですか?
そうですね。まず営業で日本一にならないと、書類落ちした大手企業へのリベンジが果たせませんから。だからまずは、営業で結果を出そうと思っていました。そのためにトーク力も磨き、商品知識も身に付けて努力をしてきました。幸い5ヶ月目位から結果も出てきて、10ヶ月目から私が辞めるまでずっと全国1位の成績を獲っていました。ハードな営業職で、1年間以上営業全国1位の成績を獲っていたので、さすがに今度こそ私を採用するだろうと自信を持っていました。
― ではいよいよ念願の大手企業への再チャレンジに、動き出すことにしたのですね。
はい。2年間の営業経験を経て、勢い込んで人材紹介会社へ行きました。
そうしたら人材紹介会社の担当の方に、「ご希望している企業は紹介できません。」と言われてしまいました。理由を尋ねると、「営業といっても個人に対してのものですし、正直なところ書類で落とされますよ」と。かわりに希望していた企業と同じような求人サービスを立ち上げていた、ディップ株式会社というところを紹介されました。担当者には、そこの営業職であれば可能性があるかもしれないと言われました。私が希望していた企画職ではなかったのですが、求人サービスであれば入りたかった企業と同じだと思って、応募を決めました。その後、現在の勤務先であるディップ株式会社に入社することが決まりました。
― 残念ながら、希望していた企業や企画職での入社は果たせませんでしたが、同じようなサービスを手がける会社へ入社が決まり、夢へと1歩近づいたのですね。
― 続く後編では、現在の会社に営業として入社後、希望されていた企画職でバイトル編集長兼はたらこねっと編集長を務めることになった経緯についてお話を伺いたいと思います。
「WEB知識ゼロでメディア編集長へ大抜擢|笠松利旭」後編記事を読む
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